2013年12月15日日曜日

ネルー愚かなり

ジャワハルラール・ネルー(ネール) (जवाहरलाल नेहरू, Jawaharlal Nehru, 1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、インドの初代首相。インド国民会議議長。インド独立運動の指導者。著述家。名前の最初に、「学者(最高位のバラモン)」という意味の「パンディト(पंडित, Pandit)」が付けられる場合もある。

 戦前、上野動物園には3頭のインド象が飼育されていたが、空襲の際に逃げだし暴れるのを恐れた行政側が殺処分したため、戦後間もない頃、日本で生きた象を見られるのは名古屋の東山動物園だけとなっていた。そこでインドのネルー首相が娘の名前を付けた「インディラ」という象を日本に贈ったのは有名な話である。

 第一次安倍政権時のインド訪問では、安倍晋三首相もインド国会での演説でこの逸話を引き合いに出しており、ジャワハルラール・ネルーといえば、大国インドの指導者にふさわしい大器量人だったと日本では思われている。

 しかし私は以前から、このネルーという人物にある種の胡散臭さを感じていた。最近インドについて考える機会も増え、インド関連書籍を読み漁るなかで、自分の直感が正しかったのではないかと思うようになり、いい機会なので備忘録代わりにエントリーしておこうと思った。

上野動物園で象と対面するネルー首相

 ネルーは富裕なバラモン階級の出身であるが、英国パブリックスクールのハロー校とケンブリッジ大学を卒業している。在学中ケンブリッジではフェビアン社会主義のブームが起き、ネルーも大いに影響を受けた。この経歴から分かるように彼は一般のインド人民と隔絶する超エリート教育を受けた、いわば「英国人」であった。彼自身「私はインドを支配する最後の英国人である」と発言している。

 第二次大戦時にネルーが徹底して連合国寄りの態度を貫いた理由がここにある。彼は英国人と大差ない思考を持って、あたかも英国人のように連合国側へついたのであった。日本軍がラングーンを陥落させると、チャーチルはインドの動揺を防ぎ、インド人を糾合して戦わせるため、慌ててインドへ使節団を送っているが、インドの地位に関するクリップスとの交渉に当って、ネルーは「たとえ英国の立場に何の変化がなくても提案を受け入れるのに賛成だ」とまで述べていた。これには他のインド国民会議派党員も驚愕したという。

 英国の立場に変化がなくても構わない、とは、およそインド人の言葉と思われず、愚かとしか言いようがない。しかしネルーの愚かさはこの発言に留まるものではなかった。中国の反日闘争をインドが支援しなくてはいけないとまで考えていたのである。

 一体なぜインド人が中国の反日闘争を支援しなくてはいけないのか? ネルーに言わせれば、これは反ファシズムの戦いだということらしいが、本人の著作を読むかぎり、理由はもっと別のところにあった気がしてならない。

 

 朝鮮も日本も、その位置のおかげで、アジアやその他の大きなできごととは、無関係にすごしてきた。かれらは事件の中心からはるかに遠ざかっていた。それで──とくに日本は──幸運だったともいえる。だからごく最近までのかれらの歴史は、これを無視したところで、さして不都合を生じない。それ以外のアジアの出来事を理解するうえに、たいした関係がないからだ。(p.208)

 驚くべき無知である。恥ずべき知的怠惰である。この世に無視して不都合のない民族など存在するのだろうか。これほどいい加減な歴史書を父から頭ごなしに与えられたインディラ・ガンジーこそいい面の皮であろう。

 日本の古来の宗教はシントー(神道)だった。これは「神がみの道」という意味をあらわす中国語だったが、自然崇拝と祖先崇拝の混合物であった。それは後生(死後の生活)だとか、奇跡だとか、人生問題とかは、あまり問題にしなかった。それは、武事を尊ぶ人種の宗教であった。 (p.211)

 この記述に日本人への好意を感じる人間がいたら、よほどの変態である。この本が戦後日本でやたらと有り難がられた理由は、まさにこのような記述にあったのではないか。自虐的な反日日本人が泣いて喜ぶほど醜い文章の羅列であり、「武事を尊ぶ人種云々」に至っては、クシャトリヤを見下すバラモンの差別意識さえ感じさせる。

 日本人は、あれほど中国人に似ており、またその文明から多くのものを受け入れたのに、しかも中国人とはぜんぜん性質を異にしている。中国人は、古来本質的に平和の民であり、かれらの文明、またかれらの人生哲学はすべて平和的なものだ。ところが日本人は、むかしからいまにいたるまで、戦闘的な民族だ。  (p.211~2)

 もはや語るに落ちたというべきか。中国人を平和的、日本人を戦闘的と言ってのけるあたり、世界の歴史を教わるべきは当のネルー本人であろう。

 ネルーがなぜここまで中国を偏愛したのか、私には知る由もない。だが日本軍がビルマを席巻し、二万を超えるインド国民軍が日本軍と行動をともにし、日本に批判的だったマハトマ・ガンジーが言を翻し始めた時期においても、ネルーがガンジーへの最も強硬な反対論者だった事実は動かない。シンガポール陥落七日後、蒋介石がインドを訪問したが、このとき蒋介石を暖かく迎えたのは他ならぬネルーだったのである。

 当然、このようなネルーの中国に対する常軌を逸した偏愛ぶりは、歴史の神から裁かれずにはいなかった。国共内戦でレッドチャイナが誕生すると、周恩来・ネルー会談で平和五原則が締結されたものの、59年には両軍による武力衝突が起き、62年には中印戦争が勃発する。

 自著で「本質的に平和な民」と書いた中国人から一方的に戦争を仕掛けられ、周到な準備を進めて先制攻撃を行った人民解放軍に敗北し、ついに国境を突破されて領土を奪われるに及んで、ネルーが受けた衝撃は巨大だったと言われるが、さて、これは本当に中共がもたらした災厄であろうか? むしろネルー自身が呼び込んだ災厄ではなかったか。

オーロビンド・ゴーシュ(1900年撮影)

 大川周明にも多大な影響を与えた、反英独立運動家で哲学者のオーロビンド・ゴーシュは、マハトマ・ガンジーとネルーの安全保障観をたびたび厳しく批判した。

 アフガニスタンがインドに攻めてきたら、非暴力でもって対処するつもりだろうか。理解しがたい。ガンジーは頭が少しどうかしている。(1940年7月4日)

 インドの大方の政治家が国際情勢についてもっている知識のすべては、あちこちで無残にも敗北した幻想ともいえる極端な政治思想ばかりだ。ネルーは、目を閉じて、外国からの侵略を偽りの脅威だと思っているのだ。(1940年6月25日)

 オーロビンドは1950年の段階で、中共のチベット占領とインド侵攻を予想していた。この冷徹なリアリズムを、ネルーが一欠片でも持ち合わせていれば、中印戦争で無残な敗北を喫することはなかったかもしれないし、インド独立はもっと早まっていたかもしれない。

 かつてネルーは「インドの独立は1970年代になるだろう」と述べたことがあった。現実には1947年に独立を達成したが、それがネルーの手柄でないことだけはハッキリしている。歴史家エリック・ホブズホームは言う。「インド独立は、ガンジーやネルーが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるというよりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマを経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされた」と。

 私は前稿でH.S.ストークス氏の著書を引用した。ストークス氏は「日本軍は大英帝国を崩壊させた」と述べた。ガンジーの運動がインド独立への最後の一手として機能し得たのは、 やはり日本軍とインド国民軍が大英帝国を崩壊させたからなのである。その過程でネルーが果たした役割はいかほどのものであったか。

 長くインド社会ではネルー批判が忌避されてきたという。しかしネルーが国を誤った指導者であることは明白である。この点、徐々にインド社会にも変化が起こりつつあるようで、一部の過激な社会運動家の中には、ネルーはサルダール・パテルを後ろから刺し、ガンジーを脅迫して首相の地位を手にした卑劣漢だと叫ぶ者もいるらしい。

 日本人もネルーを「敗戦日本に象を贈った恩人」ではなく、「ガンジーとともに非暴力独立運動を戦った英雄」でもなく、もっと違った確度から見る必要があろう。少なくともネルーの著書をありがたく押し戴く必要は毛頭ないはずである。


※参考

ジャワハルラール・ネルー 父が子に語る世界歴史〈1〉文明の誕生と起伏

賀久弓月 インド現代史―独立50年を検証する (中公新書)

長崎暢子 インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース

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