2013年12月12日木曜日

英国人記者の公正さに感謝

H.S.ストークス 1938年英国生まれ。61年オックスフォード大学修士課程修了後、62年フィナンシャルタイムズ社入社。64年初代東京支局長、67年ザ・タイムズ東京支局長、78年ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる。

 J-WAVEのラジオ番組などで活躍するタレント、ハリー杉山氏の父でもある著者はクエーカー教徒である。クエーカーは少数派であるがゆえに差別・迫害を受けてきたが、国際社会における少数派たる日本人やユダヤ人に自分が親しみを感じる理由は、まさにそこにあるのかもしれない、と氏は語る。

 英国人の手になる戦後日本論は何冊も出版されているが、著者が自身の信仰まで含めた来歴を日本との関わりから語った書はまれではなかろうか。読者の心に残るのは、緻密な内容もさることながら、著者ストークス氏の公正で正義感に富み、大勢におもねらない高潔な人格であろう。クエーカーの特色は権威に対して頭を下げないことだという。

 以下、印象的な部分を引用しながら感想を記してみる。

 1938年6月生まれのヘンリー少年は、ロンドン西部のグラストン・ベリーで暮らしていた44年6月に忘れがたい体験をする。ノルマンディー上陸作戦直前、米軍が自分の街にやってきたのだ。ヘンリー少年は白色の星が描かれた米軍の戦車と、それに乗る米兵を見た。それはたとえようもない衝撃であった。

 彼らは私たちに向かって、何か小さな物を放り投げたのだ。私たちは、それが何だかわからなかったが、とにかく拾いに行った。

 私はこの時、生まれて初めてチューインガムを手にした。アメリカ兵は立っている子どもに、チューインガムを無料で放り投げていた。私はそれに対して嬉しいと感じることなどなく、むしろ複雑な気持ちだった。

 いまの私のアメリカに対する感情も、その時に感じた気持ちと似たものがある。とても不安な感じで、どっちつかずで心落ち着かない感覚だ。素直に受け入れられない気持ちだ。(p.19)

 米兵は世界中で全く同じことをしていた。日本でも英国でも、どこでも全く同じだった。そして敗戦後の日本でチューインガムを配る米兵に少年たちが感じたことと、まったく同じ感想を英国の少年も抱いていた。これが米国の愚かさを証明する逸話でなくて何だろうか?

 私はあの戦車を初めて見た時に、はるかに強大な力を感じた。アメリカが世界を完全に制圧しており、抵抗することは不可能だと思った。(p.19)

 私は子どもとしてアメリカの戦車を見て、本能的にアメリカ軍がわれわれの国を支配するようになるのだと感じた。私たちが戦っていたドイツについてそう思ったのではなく、アメリカに対してそう直感した。そして今、アメリカは巨大な勢力となって、わが国イギリスをコントロールしている。実に不愉快なことだ。

 アイダホか、ユタか、アーカンソーか、どこから来たか知らないが、アメリカの若造が戦車でやって来て、まるで王であるかのように振る舞っていた。私はあの若造たちが浮かべていた笑みを、今でも鮮明に覚えている。彼らは意気揚々としていた。(p.20~1)

 いったい、私たちの国の何をわかっていたのか。戦車で町を通りすぎて行ったが、そこがアーサー王ゆかりの伝説的な町であるなどということに、まったく頓着もせず、アメリカ文化を象徴するチューインガムを薄ら笑いをしながら、ばら撒いていった。(p.23)

 この少年の素朴な感想がアメリカ文明の真相を暴露している。英国人が米国に抱く複雑な感情は、決して世界の覇権をまんまと奪われたことにのみ起因しているのではない。

 50年代になるとストーク氏は黒澤明の『七人の侍』などの映画を見て新鮮な衝撃を受けたという。日本人は、英国の数百年にわたる植民地支配の歴史で出会ったこともない、「別次元」の存在だと気づいた、と。

 イギリスは何百年もかけて大帝国を建設し、その帝国を維持した。その間に、インド人をはじめアジアのさまざまな民族と戦った。もちろん、インド人との戦闘も、熾烈を極めた。アフガニスタンや、北パキスタンの敵も、手強い相手だった。

 しかし、日本人はそうした「強い敵」をはるかに凌駕していた。日本人はそうした植民地支配を受けた人種と、まったく違っていた。日本が大英帝国に軍事進攻した途端に、何百年も続いた帝国が崩壊した。イギリスは日本のマレー進攻によって、催眠にかけられてしまったようだった。日本軍のあまりの強さに、降参するしかなかった。(p.34)

 著者はたびたび日本軍の強さに言及している。英国人にとって日本軍の強さがいかに印象的だったかよく分かるだろう。

 日本軍が突然、マレー半島に上陸し、まったく次元の違った戦いが始まった。チャーチル首相も、面食らった。

 シンガポール防衛軍のパーシバル司令官は、金縛りにでもあったかのように、まったく戦うこともせずに、戦意を喪失し、降伏した。日本軍の司令官もイギリス軍の弱さに、驚いたことだろう。日本陸軍はそれほど強かった。

 イギリスだけではない。アジア各地にオランダ軍など、西洋各国の軍隊が展開していたが、あっという間に日本軍に敗れてしまった。日本は短期間にそれだけの地上軍を展開する力を、持っていた。(p.43~4)

 日本軍は、大英帝国を崩壊させた。イギリス国民の誰一人として、そのようなことが現実に起ころうなどとは、夢にも思っていなかった。それが現実であると知った時の衝撃と、屈辱は察して余りある。(p.44)

 白人種にとって、有色人種にこうまでコテンパンにやられるなど史上未曾有だ。ヘンリー少年は大英帝国領がピンク色で大きく示された地球儀を見ながら育った。しかし大戦後にピンク色領土の大部分は別の色に変わっていたという。それはやはり英国人にとって想像を絶する悔しさだったのだろう。

 それだけに、欧米の植民地支配を受けたアジア諸民族の独立にあたって、日本が大きな役割を果たしたことを、英国人の著者が正面から受け止め、その正義を認めていることの意義は大きい。東京裁判の茶番も指摘されている。著者生まれつきの性質なのかもしれないが、人間がここまでフェアーになれるということは、やはり我々にとって希望ではないだろうか。

 ストークス氏が特派員として東京に赴任したのは64年。出会った日本人で最も重要な人物は三島由紀夫だった。三島については二章を割いて詳しく述べているが、この三島論も実に秀逸で、日本人でもここまでの理解に到達した人は数えるほどだろう。

 これは人類史上で知性的、文学的に表現されつつ、具体的な行動を伴った、もっとも緻密で、時間と労力を費やした計画的自殺ではなかったろうか。五年間にわたるカウント・ダウンだったのだ。(p.68)

 命と引換えてでも守ろうとするものがなかったら、三島は死ななかった。人気作家で、経済的にも豊かだった。ノーベル賞候補としても名があがり、多くの読者がいた。この世に満たされないものがなかった。

 その三島を「国体」という一点が、捉えて離さなかった。論壇の言葉の世界ではなく、現実に命を失っても守るべきものがあり、生き様の体現だった。(p.129)

 『英霊の聲』は、魂の訴えだった。私は「おばあさん」と呼んだ妻の母と、ずっと一緒に東京で暮らした。「おばあさん」は、いつも三島に興味を持っていた。そして私に「あなたの三島について言っていることが理解されるには、あと二、三〇〇年はかかるわよ」と言っていた。

 三島が西洋で注目されるのは、小説家としての側面で、評論や政治的活動は対象となっていない。私の描く三島像は、世界的に理解されていない。「おばあさん」が、正しいのかもしれない。

 私の感じる三島が人々に理解されるには、本当にあと二、三〇〇年は、時を待たないとならないかもしれない。私は、三島が檄文で訴えていたことは、大筋で正しいと思っている。しかし、西洋世界では、その観点はまったく見落とされている。(p.139~140)

 モーリス・パンゲが『自死の日本史』で描いた三島像と重なっているように感じる。文学者とジャーナリストの違いこそあれ、両者とも同じ結論に達したように読めるのだが。

 ジャーナリストとして、多くの日本人やアジアの指導者と出会った著者の人物評も興味深い。個人的には、金大中と白州次郎の評価に大いに賛同する。

 金大中という人物は、偽物だ。本物の人物ではない。詐欺師で、偽り者だ。いつも駆け引きをしている演技者だ。人々の気持ちを巧みに操る。哀れむべき人間だ。

 私も金大中の演技に騙された一人だ。多くの韓国民も騙された。金大中の能力のすごさは、そうした詐欺行為がずっとバレることなく、続いたことだ。

 (中略)

 金大中が欲しかったのは、権力だった。彼はいつも自分の立場だけを、気にかけた。光州事件の勃発するなかで、金大中がもっとも心に留めていたのは、金大中自身であり、権力を握ることだった。(p.174~5)

 金大中は骨の髄まで、腐敗していた。韓国の庶民のあいだで、金大中が大統領になってしばらくしてから、本名は「金大好」だというジョークが、流行った。(p.178)

 大統領となるとすぐに、北朝鮮の傀儡であることを示した。私はジャーナリストとして、ただ不明を恥じている。(p.179)

 W杯日韓大会の開会式で、金大中が見せた天皇皇后両陛下への不敬行為は、彼の人間性そのものを余すところなく伝えるものだったろう。こういう人物をやたらに持ち上げては、何らの反省を示すこともない日本のマスコミは、ストークス氏の爪の垢を煎じて飲むべきである。

「俺はボランティアではない」というのが口癖で、金儲けに眼がなく、英国企業の日本進出を手助けし、成約金の五パーセントをロンドンの口座に振り込ませていた。生涯、豪奢な生活をした背景に、こうした手数料収入があった。

 私は白州が傲慢で威張ってばかりいたから、好きにはなれなかった。自己顕示欲が強くて、いつも自慢話を言いふらしていた。

 (中略)

 次郎は映画俳優のように男前で、流暢なイギリス英語を、反り返って、まるで人を見下すように話した。自分が関心を持たない人物がそばに来ると、無視するようにそっぽを向いて、無礼な態度をとった。それでも、イギリス人の友人たちが、次郎の博覧強記ぶりは驚嘆に値すると、語っていた。(p.223)

 さすが徴兵のがれ男、としか言いようがない。NHKがドラマ化するという時点で、何というかもうダメである。ストークス氏のような白州次郎観が一般的になることを切望したい。

 ストークス氏はいわゆる「慰安婦問題」や「南京問題」の虚構についても実に詳しいが、これは『史実を世界に発信する会』の英語情報によるところが大きいようである。これまで日本人が日本の立場を英語で世界に発信することがなく、外務省も自国の見解を説明する仕事を怠ってきたため、反日プロパガンダが世界中で野放図に垂れ流されてきたが、徐々にその潮目も変わりつつあるのだろうか。もちろん、まだまだ努力が足りないのは言うまでもないが。

 最後に、長く外国特派員として活躍してきたストークス氏の忠告を引いておきたい。外国へ発信するといっても、そのやり方次第では逆効果のようだから。

 日本外国特派員協会の記者会見は両刃の剣で、けっして甘いものではない。ライオンの口の中に頭を入れるようなもので、いつ噛みつかれるかもしれない。記者は残忍だ。温情は期待できない。特に政治家に厳しい。(p.82)

 橋下市長の「慰安婦」に関する一連の報道は、彼が女性の人権をないがしろにしているという印象を与えた。もちろん、橋下市長は不本意だろう。そこで日本外国特派員協会で、あの記者会見を開いた。

 効果的に伝えたいなら、もっと違ったやり方があったろう。テレビで、日本で尊敬されている女性と対談をするという手もあった。また会場にしても、ホテルのような中立的な場所で会見したほうが、まだよかった。外国人記者倶楽部は、中立の場ではない。(p.85)

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