シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日 )は、フランスの哲学者。哲学の教職につくも労働運動への関心から女工生活を経験。スペイン内戦では義勇軍に応募。ユダヤ人の血を引くため42年にはアメリカへ亡命。その後ロンドンへ移りレジスタンス運動に参加する。享年34歳。
ヴェイユの著作は難解と言われますが、この『神を待ちのぞむ』に収録された「神への愛のために学業を善用することについての省察」は誰でもすんなり読むことができます。
もちろんテーマは信仰ですが、あからさまな信仰から離れた立場の人が読んでも、著者の真摯な姿勢から大いに得るところがあるでしょう。
幾何学に対して才能がないとか、生まれつき好きではないのだとかいうようなことは、問題を解いたり、証明を吟味したりして、注意力を伸ばして行くさまたげにはならない。むしろ、その反対だと言ってもいいぐらいである。その方がかえって好都合なのだと言ってもいいぐらいである。
うまく解答が見つかったり、証明ができるようになったりすることも、そんなに重要なことではない。もちろん、そういうことができるようになるために、努力はしなければならないけれども。いかなる場合でも、それが本当のものでありさえすれば、注意力のための努力は決してむだになることがない。(p.86)
小学生時代、算数の時間の計算ドリル競争が大嫌いだったんですよね。日能研に通ってるような子は、あっというまに問題を解いて先生のところへノートを持って行くんだけど、僕はちっとも能率が上がらなくて順位は下から数えた方が早いぐらい。
だから算数も数学も本当に嫌いでしたね。「おまえはダメだ」と言われ続けてる気がして。自分が問題を解くために努力したこと自体を認めてもらえないのも本当にイヤでした。
ところがヴェイユに言わせると、才能がない方がいい、その方が好都合だと言うんですから面白いもんです。
何かある幾何学の問題を解くのに、真の注意力を持ってがんばってみたが、一時間たって、はじめの頃とそんなに進歩していないように見える場合、それでもやはり、この一時間の中の一分一分ごとに、さらに神秘的な別の次元においては進歩してきたのである。そのことが感じられなくても、また、そのことが知られずにいても、表面上は不毛で、なんの果実も結ばないように見えるこういう努力が、たましいの中にかがやき出す光をはぐくみ育ててきたのである。(p.87)
なんで数学の先生はこういうことを生徒に言ってくれないんですかねえ? 信心深いヴェイユにとっては、答えが出せることよりも、注意して考えることの方が大事だと。これ小・中学生時代に聞いてたら、もう少しまじめに数学の勉強したかもしれないよなあ。
その果実は、いつの日か、後になって、祈りの中にふたたびあらわれてくるに違いない。また、その果実は、たぶん数学なんかとはまったく縁のない、何かある知性の領域のうちに、おそらくふたたびあらわれてくるに違いない。そしてまた、効果のないようにみえるこういう努力をつくしてきた人が、やがておそらくいつの日か、こういう努力のゆえに、ラシーヌの詩の一行の美しさを、より一そう直接に理解することができるようになるにちがいない。しかし、この努力の果実が、祈りの中にふたたびあらわれてくるということこそ、確かであり、疑いのないことである。(p.87)
ムダに思える努力をしてきた人こそが、本当の美しさを理解することができる、と。まあ、人生万事こういうものかもしれませんね。苦労して苦労して、辛い思いをしてきた人ほど、他人に対して優しくなれるのと同じかも。
注意力をこらしての努力があるところに、まさに本当のねがいがある。…注意力をこらしての努力が、何年もの間、表面上はみのりのないままに終わっているようにみえても、やがていつの日か、この努力に正確に即応した光があらわれて、たましいを満たすのである。どのような努力でも、世界中の何ものも奪いさることができない宝物に、なおいくらかの黄金をつけ加えるものである。(p.89)
報われないようにみえる努力を、人のみえないところで続けてきた人には、いつか必ずそれに相応した“光”があらわれる、と。かなり宗教的な言い方ですが、努力が思いがけない形で花開く事例を、我々はひんぱんに目撃しているような気もしますね。身近なところにそういう人けっこういるような。
どうかすると、注意力を一種の筋肉の努力と混同してしまうことがたびたびある。生徒たちに向かって「さあ、みなさん、注意するんですよ」と言うと、かれらがひたいにしわをよせ、息を殺し、筋肉を収縮させるさまが見られる。二分ばかりたってから、いったいあなたがたは何に対して注意をしているのですかとたずねてみても、かれらは返事ができない。かれらは、何ものにも注意をしなかったのである。注意なんてしなかったのである。ただ、筋肉を収縮させただけである。(p.91)
こういう経験もみんなしたことがあるんじゃないかなあ? なんか深刻に考えている顔を作ってるだけで、実は何にも考えていないという。まあ、学校の先生は「は~い注目!」とか、しょっちゅう言い過ぎるんですけどね。
知性はただ、欲望だけに導かれて動くのである。欲望が出てくるためには、楽しさとよろこびがなければならない。知性はただ、よろこびの中でだけ大きく育ち、実を結ぶのである。学ぶというよろこびが、学習にとってなくてはならないものであるのは、走る人にとって呼吸が欠かせないものであるのと同じである。よろこびが欠けているところには、学ぶ人は存在せず、ただあわれな見習い工まがいの者がいるだけで、見習い期間が終わってもなんら手に仕事がついていないという有様になるであろう。(p.92)
ヴェイユに教わった生徒はきっと楽しかったのではないかと思わせる文章ですね。進学校になるほど問題を解くテクニックばかり教えて、教育の本質を考えない先生が増えますが、ヴェイユは女工としてルノーの工場で働き、よろこびのない労働による人間疎外の実態を知り尽くしています。その経験が彼女に“学ぶよろこび”について語らせたのでしょう。
不幸な人々がこの世において必要としているのは、ただ自分たちに注意を向けてくれることのできる人たちだけである。不幸な人に注意を向けることのできる能力は、めったに見られないものであり、大変むつかしいものである。それは、ほとんど奇跡に近い。奇跡であるといってもよい。(p.98)
ヴェイユの言う「注意力」の本当の意味がここで明らかになったようです。学問において注意を払うことも、不幸な人々へ注意を向けることも、本質的には同じことなのだと、そうヴェイユは言っているのですね。
だから、数学の問題が解けるかどうかよりも、数学の問題に注意力を持って向き合えるかどうかの方が大事なのだ。それは不幸な人々へ注意を向けることができるようになれるかどうかの問題なのだと。
真の注意力を持って勉強することは、不幸な人々へ注意を向けられる人間になるために必要なことなんですね。むしろ倫理・道徳的な意味で大事だと、そうヴェイユは言っているようです。
だから逆説的なことを言うようだが、次のことは真実である。ラテン語の翻訳ひとつ、幾何の問題ひとつにしても、たとえその結果がかんばしくなくても、ただそれにふさわしい努力を傾けたということがあれば、それだけでもう、後になって機会が到来したとき、いつかは、不幸な人がこの上ない苦悩に苦しんでいるのに際して、その人を救うことができる助けの手をしっかりとさしのべることができるようになるのである。(p.99)
もし学校の勉強だけで人間がこれほどの道徳的高みに上ることができるなら、こんなに素晴らしいことはないでしょうね。現実には、学校教育にそこまでの期待をできないと誰もが分かっているはずです。
不幸な人に救いの手をさしのべるような力は、学校教育よりも人生で直面する様々な苦しみの経験によって育まれることが多いというのが本当のところでしょう。
しかし、ヴェイユが教育者として、ここまで学校教育に大きな意義を見いだしていたことは、彼女の教育者としての真摯さを物語るものではないでしょうか。
象牙の塔にこもることを潔しとせず、社会の中に飛びだしていった哲学者が、大遍歴の末に到達した理想には、我々も耳を傾けるだけの価値が十分にあると思えるのですが。
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