2012年5月3日木曜日

再びエンデについて

エンデの文明砂漠 ミヒャエル・エンデと文明論 (アインシュタイン・ロマン)

 

 エンデはアインシュタインの学問的な業績の価値を十分認め、個人批判をするつもりはないことを強調した。しかし“文明砂漠”を生み出した科学的なものの考え方をアインシュタインを例にして指摘することは意義があると考えていた。




前回に引き続き「エンデの文明砂漠」から引用。

エンデ:アインシュタインの物理学が原子爆弾につながるのは偶然ではなく、根拠がないわけでもありません。それはその物理学が人間を世界からなくすように思考するものだからで、人間をなくすように思考しはじめると、その帰結は人間を文字通り排除するのです。(p.79)

 「人間をなくす思考」とは科学の特徴と言われる客観性のこと。これがなぜ原爆につながるかは、しっかりエンデの理屈を追っかけていかないと分からない。

エンデ:私は、この科学がもつ客観性の自負には異論があるのです。私には、それは自然科学のきわめてナイーブな基本姿勢に思われるのです。それが最終的に帰するところは、自然科学とその一連のものが計測、計量できるものだけを現実として認めるということです。もちろん、現実の一部として計測、計量できるものもあるわけですが、それは、あくまで現実の一部であり、もしかしたら最も重要な部分でさえないかもしれないわけです。(p.79-80)

 おそらく科学者はこういった批判にどう答えていいのか分からないだろう。「当たり前だ。科学とはそういうものだ」と答えるかもしれないが、それは答えにならない。エンデは科学の外側から問いかけているからだ。

エンデ:自然科学的思考は、質に属するものは排除しています。質的な要素を、自然科学は主観的であり、実体のない迷妄にすぎないとしているのです。そのことにより、自然科学全体が救いようのない矛盾に陥ったのです。なぜなら、価値観をもたない思考などまったく存在し得ないのですから。

 科学者自身にとっても、自ら研究するにあたり少なくとも一つのモラル的原則を前提にしているのです。それは真実を目指す努力です。その科学者が、この「真実への努力」をも主観的とするならば、彼の自然科学をもはや遂行できないでしょう。彼がしかし、「真実への努力」を認めるのであれば、自然科学が証明し得ない価値をも認めなくてはなりません。「真実への努力」などは、主観的で実体のないものですから、現在の自然科学では証明し得ないことなのですから。まさにそれは数字で表して、計量化も計測もできないことに属しています。(p.80)

 科学における不正行為は近年ますます増加している。ねつ造・改ざん・剽窃・複製・二重投稿などなど…。専門化が進んだ現在の科学界では科学誌に投稿された論文のチェックも容易ではなく、そもそも科学誌の査読も「研究者が倫理的行動をとること」を前提としているため、不正行為を発見する機能を十分に果たしていないのが現状だ。

 不正行為は科学者個人の問題だと言うかもしれないが、科学研究の大前提として「倫理的行動」「モラル的原則」が存在している事実は揺るがない。科学者はまさに「真実への努力」という価値を認めるしかないところに追い込まれている。

エンデ:科学者は「真実への努力」を、自らの重要な精神的価値として認めているのです。しかし、そのこと自体は、自然科学では証明できないものであるということを認めなければならないのです。言い方をかえれば、自然科学がすべてを説明できるという考え方を捨てなければなりません。

 「自然科学がすべてを説明できるわけではない」からといって、別に「超能力が存在する」と主張しているわけではない。科学で証明できない価値があることを認めなければ、科学的な営み自体が成立しなくなると言っているのだ。

 しかし、多くの科学者は自然科学で証明できない価値を認めようとしないのが現実だ。ニュートンは「科学に宗教の心理をもちこんではいけない」と言ったが、「真実への努力」を科学にもちこまなかったから不正行為が頻発しているのではないか。科学は矛盾に陥っている。

エンデ:そこで私たちは、この世には定義できないものがあるという問題に行きあたります。真実とは何か、善とは何かは定義できません。含んでいる内容があまりに多く、区切りがつかないのです。生の意義はもちろん言葉では定義できません。でも人間は、ふさわしい形で生きていれば、それを体験できると思います。説明できないことを行動する以外に方法がないことは多くあるのです。

 ちなみに、芸術もその一つです。芸術は定義できません。それは行うものです。詩作や音楽も同じです。芸術の意義とはそれ自身です。その存在そのものです。

 同じことは人間の意義においても言えるのです。(p.83-6)

 価値観なしに人間が思考できると考えたことで、科学はその内面から人間存在そのものを排除してしまった。定義できないものがあることを認めないとしたことで、科学はその内面から人間存在そのものを抹消してしまった。そのため科学は「人間をなくす思考」に変貌し、結果、物理学は文字通り人間を排除する「原子爆弾」に到達してしまった。これは理の必然なのだ、と。

 さて、1945年に広島の原爆投下を知ったアインシュタインは“オー、ヴェー”と悲鳴を上げたと記録に残っている。だがエンデはこの美談も真っ正直には受け取らない。

エンデ“オー、ヴェー”というのは、ドイツでは財布を落としたときにも発する言葉なのです。これだけでは、あまりに少ないのです。この言葉は、大きな悲嘆でもなく、根本的な崩壊でもありません。この瞬間こそアインシュタインは自分が行ってきた科学とその結果に、因果的関係があることに考えをおよぼさねばならなかったはずです。私は人が間違いを犯すということを責めません。しかし、それが間違いであるということがわかったとき、あるいはカタストロフィーが現出したときに彼は考え直すべきであったと思います。自分が行ってきた学問とその前提をもう少し深くとらえるべきだったのです。アインシュタインは、それ以降も、何事もなかったかのように従来通り仕事を進めました。(p.106)

 このエンデの指摘を日本人はよく覚えておくべきだろう。決して憎悪を煽るつもりはないが、核の炎に焼かれた同胞の痛みが財布を落とした苦痛の比でないことは言うまでもないからだ。

 今や核拡散は決定的なものとなった。核兵器の全廃は夢物語でしかないことを誰もが知っている。オバマ大統領の「核なき世界」も自国の戦略・戦術核を温存するための政治的レトリックでしかないことは周知の事実である。

 こういう時勢にあって哲学論争につきあう暇はないと言う人もいるかもしれない。だが、同胞を焼いた炎がいったいどういう思考過程から生まれたか知っておくことは、決して無益ではないだろう。エンデは決して「子供向けの安全なメルヘン作家」ではないのである。

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