2012年4月28日土曜日

エンデについて

エンデの文明砂漠 ミヒャエル・エンデと文明論 (アインシュタイン・ロマン)

一般にミヒャエル・エンデといえば児童向けメルヘン作家と思われているが、ドイツ人らしく哲学の伝統を受け継いだ作品群は没後も色あせず、現代人に真剣な問いを投げかけている。

 新しく買ったパソコンのDVD機能チェックに「ネバーエンディングストーリー」を使っていたら、なんだか無性に原作の「はてしない物語」を読みたくなり、読んでいるうちにまたエンデのことを考え出してしまった今日この頃。

 エンデの著作はほとんど読んでいますが、個人的に最も衝撃的だったのは小学生時代に読んだ「はてしない物語」や「モモ」「ジムボタン」よりも、高校時代に読んだエンデのインタビュー集「エンデの文明砂漠」でした。以下「文明砂漠」から印象的な部分を引用してみます。

エンデ:私の見るところでは、環境問題を心配している人が一度も口にしないことがあります。

 それは私たちは、社会的災難環境問題的災難この二つから一つを選ばなければならない、ということです。(略)

 もし仮に、(※環境を守るために)皆が消費量を半減したとしましょう。この場合の皆とは工業化社会の市民を表しています。仮に二人に一人しか自動車を買わなくなったらドイツの例で言えば、すぐに七百万人近くの失業者が町にあふれる結果となるのです。それは、国家も失業保険で救済できない規模です。日本でも同様でしょう。もしかすると日本ではさらに悲惨なことになるかもしれません。(略)

 現状の経済が、つねに成長し続けること、しかも毎年最低三~四%の成長率があってこそのみ存在し得るものであるということは、私にはほとんど信じ難いことです。この世に際限なく成長し続けるものは何もありません。癌をのぞけば。癌は患者が死ぬまで成長し続けます。私は、今のお金のシステムに、人体の癌に似たものがあるような気がするのです。つまり成長の強制です。

 私たちは、皆がよい生活ができ、しかしそれ以上ではないお金のシステムを実現すべきです。

(前掲書 p.17-8)

 経済学者の飯田経夫氏は生前非常に環境問題に関心を持っており、経済学を環境問題も含めた普遍的な学問として再構築していく必要性を感じていたそうですが、当事者として「それは無理難題であり、私は経済学には絶望している」という言葉を残して亡くなっています。

 エンデは作家らしいファンタジックな感性から社会的・環境的災難どちらにも対応できる「新しいお金のシステム」という発想をしているわけですが、本職の経済学者から「無理難題」という言葉が返ってきたところに一筋縄でいかない現実の難しさがあるようです。

 しかし、それにしてもエンデの言わんとしていることはよくわかります。今だって日本は原発をめぐって再稼働すべきか、せざるべきか、製造業に必要な電力を確保できるか、できないかという議論に明け暮れているわけで、原発を稼働したときのリスクを環境問題的災難とすれば、製造業の逼迫による経済成長の鈍化は社会的災難そのものと言えるわけです。

 そりゃあ1億2千万日本国民が古代の哲学者エピクロスのように、パンと水と小壺一杯のバターで満足できるなら、経済成長なんかいらないでしょう。

 ラディカルな反原発派の中には「いざとなったら日本人は味噌汁とタクアンの暮らしに戻ればいい」と豪語する人もいますが、実際にそれを1億2千万人が実践できるわけはないし、そんなことになったら、税収もなくなり国防費も維持できず、国土が諸外国にほしいまま蹂躙されるのも目に見えています。

 現実の日本が抱える問題にはデフレによる不況から来るものが多く、経済成長を否定すれば社会問題を放置せざるを得なくなるわけで、実際に経済成長を否定することなんてできるわけがない。

 しかし新しいお金のシステムが見つからない限り、我々は永遠に「成長の強制」から逃れることができず、環境問題的災難は放置され続けることになるのも事実です。

 だからここらで世界中の英知を集めてエンデの夢見た「新しいお金のシステム」を探し、「成長を超える価値観」を提示してほしいというのが私の本音でもあるのですが、実際に政界で「新しいお金のシステム」について言及しているのが、よりにもよって民主党の原口一博だったりするので、こりゃ望みは薄いかなあと(笑)次回に続く!

 

 

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