2012年2月22日水曜日

人は「慈悲」を実践できるか?

 著者は仏教学の世界的権威、中村元。初版は平楽寺書店より昭和31年に刊行。仏教の根本にして最重要概念たる「慈悲」の分析。実践倫理的な側面の解説。ひろく宗教・倫理の根本を問う迫力に満ちた不朽の名著。


 慈悲、無慈悲という語は現代日本人の間にも生きてはたらいている。「あの人は慈悲深い」とか「あんな無慈悲なことを」といった用法に見られるように、慈悲という語そのものが死滅したわけではない。

 現代においては慈悲という語から本来の宗教的意味が失われつつあるが、それは宗教が不合理なドグマとして嫌われる傾向性の反映であって、宗教的なるもの自体が完全に否定されているわけではない。そのことはどんな宗教を信じていようと心清らかで行いの誠実な者は尊敬されることからも分かる。

 行いの純粋さ、誠実さの権威が高く君臨しているということは、聖典の権威が第二次的・派生的なものであることを意味するのではないか。著者はマックス・ミュラーの言をひく。

「真理の証があらゆる時、あらゆる場所において人間の心のうちに存在した。…あらゆる宗教において慈善の義務が一般に認められている…」

 換言すればキリスト教が真理であるのは、仏教など他宗教と共通な慈善の精神あるが故なのだと。このミュラーの問題意識を著者は敷衍する。仏教は仏の説であるが故に尊いのか。或いは慈悲の教えであるが故に尊いのか、と。

 仏教のみならず他の諸宗教も愛を説くが、バートランド・ラッセルは権力の崇拝者に正反対なものとしてブッダを持ちだし、マックス・ミュラーも「仏教と慈愛(charity)は同義である」と主張した。慈悲の観念とは仏教に特徴的なものと言えるようである。 ならば、この「慈悲」とはいったい何であろうか。この問題意識に基づいて著者は膨大な仏典を引用しながら、「慈悲」の意味を解き明かそうとする。

 語義的に言えば「慈」と「悲」は別の語であり、「慈」は「友」「親しきもの」を意味する語からの派生で、真実の友情、純粋の親愛の念を意味するのに対し、「悲」は「哀憐」「同情」「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」を意味するものであるという。

 より具体的には、「慈」は「(同胞に)利益と安楽とをもたらそうと望むこと」であり、「悲」は「(同胞から)不利益と苦とを除去しようと欲すること」であると注解されることなどが詳述されている。

 「慈悲」は初期仏教のテキストにも散見されるが、紀元前6世紀になって急に慈悲を説く思想が現れたのは、当時マガダ国を中心として農業生産が増大し、工業も進展したため、上層階級に生活のゆとりができて反省の機会が得られたからだと、歴史的な背景も紹介される。

 生産の増大により発展した商業は、商業路の安全を求めるが故に、闘争を避け平和を求める思想が王権及び商業資本の歓迎するところとなったと考えられているらしい(※だとすれば、「慈悲」の観念は、その出自からして「金持ちケンカせず」の色彩を帯びていたということだろうか?)。

 専ら「慈」のみが強調された時代から「慈」と「悲」とが併称され、さらに「喜び」と「平静」(無関心・捨)が加えられて、「慈・悲・喜・捨」の四徳を修せよと説かれ、「慈」が「無量」なものとされたため、他の徳も「慈」にならい、いわゆる「四無量心」がここに成立する。

 しかし慈悲が他の徳とまとめられる時には、その絶対的意義が著しく軽減されてしまうのも当然であろう。仏教が発展するにつれ、仏の偉大さが強調されるようになり、その結果、仏の大慈悲が説かれて一般修行者の慈悲とは区別されるようになったという。

 ここにいたって「慈悲」はわれわれ凡人の身の丈を超える観念へと変貌を遂げていったらしい。初期経典でも比較的新しく成立したジャータカでは、慈悲心による他者救済のテーマが描かれるが、そこに現れる過去世の釈尊は、いわゆる「捨身飼虎」のエピソードに見られるように、自らの生命を平然と投げ捨て功徳を積むスーパーマンである。初期仏教の段階で、既に「慈悲」は超人によってのみ成し遂げられる徳目に祭り上げられていたということであろう。

 アショーカ王以後、上座部仏教は上層階級の支持を受け、僧院のなかで煩瑣な教理研究と修行に専念するようになったが、これがややもすれば利己的独善的な態度に終始する傾向を持っていたため、小乗と痛烈に非難され、大乗仏教という新たな教団の誕生に至ったことは周知であるが、この大乗仏教においては「慈悲心」が宗教の中心に置かれることとなった。

 大乗の修業を行うものは菩薩であり、生きとし生けるものを救おうとする大慈悲心を持ち、その誓願を立てるとされる。ブッダ観に一種の転換が起こった結果だが、阿弥陀仏、薬師如来、毘廬舎那仏、弥勒仏の信仰が盛んになったのも慈悲の強調と無縁ではありえないだろう。竜樹は「まず、慈悲心があるからこそ、悟りを得られる」とまで言う。慈悲はますます強調されていく。

 慈悲の理論的基礎付けもいっそう進む。初期仏教においては、「何人も自己を愛しており、同様に他人も自己を愛しているからこそ、自己を愛する者は他人を害してはならない」という、わりと常識的な立場から立論されていたものが、大乗仏教においては空観によって慈悲の実践を基礎づけるようになる。

 空観は仏教で最も難解な思想であるから本稿での詳述は避けるが、「空」の思想によって対立する自己と他者の存在そのものが否定され、否定を介した自他不二の境地が実現されることで、慈悲がおのずから顕現すると考えられるようになっていった。

 こうしてみると、初期仏教から大乗仏教に至るまで強調の度合いをますます増していった「慈悲」は、その性格として一般人にとうてい手の及ばぬ徳目となっていたことは明白であろう。著者の記述から、慈悲の意義内容も原義を超えて、まさしく無差別に拡大していったことが分かる。

 まず、慈悲は感性的な好悪を超えて実践されねばならないものとなった。人間はややもすれば醜いものよりも美しいもののほうをより多く愛するが、「慈悲」は美醜の別を超えて実践されねばならない。あまねくひとびとを愛さなければならないのである。

 また、慈悲は親疎の別を超えて実践されねばならないものともなった。人間は自分に親しいものに対しては余分に愛情を注ぎ、自分から遠いひとびとのことを顧慮しようとしないが、「慈悲」はこの立場を超えて親しい者から親しくない者まで、平等に及ぶべきことが要請される。

 身分的階位の別は言うに及ばず、ついに慈悲は人間を超えていくことを要請する。「慈悲」は一切の生きとし生けるものにまで及ばねばならない。人間は動物を軽蔑するが、欲望にとらわれ利益に動かされる点で人間と動物に差異はないとの視点から、人間と鳥獣の区別自体が撤去されてしまう。動物愛護ではない。人間を「生きもの」の一種と見るべしと言っているのである。

 人間どころか一切の生けるものに対して、いかなる差別もない同情心を持て。これを字義どおりに実践するならば、我々は相手がヤクザであろうが、人殺しであろうが、テロリスト、動物、一切関係なく無差別平等に向き合い同情心をもって自他不二を目指さねばならないことになる。これはもはや無理難題と言えよう。

 実際に、広域指定暴力団山口組系後藤組の元組長、後藤忠正氏がヤクザ引退後に得度しようとしたところ、天台宗が上を下への大騒ぎになったことがある。全ての生けるものは平等と説く慈悲の教えからすれば、ヤクザ極道を差別して出家を認めない理屈は成り立たないからだ。

 暴排条例の施行にあわせて、比叡山延暦寺が山口組に対し、阿弥陀堂に安置する初代から四代目までの位牌への参拝を控えるように要請したとも報道されている。仏教団体といえども慈悲の実践には苦慮しているのが現実である。

 それもこれも「慈悲」があまりにも超人的な徳目となったからで、このことをウォルター・ルーベンは「同情を抽象的且つ非人間ならしめる無制限な誇張」と批評しているそうである。著者もこの非難を一面において当たっていると認めており、慈悲が抽象的普遍のうちに没入して観念的にのみ考えられる危険のあることを否定しない。実際、著者は慈悲の完全なる実践が不可能事であることを、文中でいくたびも言及しなければならなかった。

 禽獣にまで慈悲を及ぼすということは、もちろん人間としては容易に実行できないことであろう。実際問題として完全な実行は不可能にちかい。(p.157)

 われわれが慈悲を実践するということは、極めて困難な課題である。われわれがそれを実践し得るところのものは、極めて微々たるものにすぎない。(p.192)

 実践における理想の境地は、われわれにとってはつねにかなたの世界であろう。われわれが実現し得ないが故に理想であるのかもしれない。(p.197)

 慈悲の完全な実践ということは非常に困難な問題である。(p.201)

 人間は不殺生の誓いを立てたとしても、なお実際問題として殺生せざるを得ない。(p.201)

 かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。(p.271)

 にもかかわらず、著者は慈悲をあくことなく研究し、その尊さ意義深さを説いてやまない。著者にとって、われわれが生きるこの現世で慈悲が実現され得るかどうかは、関心の埒外のようである。それは慈悲の実現そのものよりも、慈悲を目指す人間の行為そのものにこそ、著者が信仰の意義、人間の尊厳を認めているからであろう。

 われわれは外にあらわれた行為を以て信仰をはかることはできない。しかし信仰はおのずから行為的努力となってあらわれて来るはずである。(p.197)

 自己がすくわれるということは、他人をすくうというはたらきのうちにのみ存する。他人のために奉仕するということを離れて自己のすくいはありえない。(p.248)

 いかにたどたどしくとも、光りを求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。(p.270)

 このような、行為のうちに信仰と尊厳を求める人物は、現代の世界にも数多く見受けられるように思う。マザー・テレサの博愛は「慈悲」の実践を目指した行為的努力そのものとみなせるであろうし、他にも名もなき実践者が世界には数限りなくいるに違いない。こういった慈悲を目指して行為する人々の努力は決して軽んじられてはならない。敬意を払われねばならない。

 なかでもダライ・ラマ法王の慈悲を目指した行為には、とりわけ大きな宗教的意義があるように思われる。東日本大震災の被災地へ法王が発したメッセージは、まさに「慈悲」の実践を訴えるものであった。

 身近な友人のことだけでなく全ての命を慈しみなさい

 心の平安を保ち、世界平和のために行動しなさい

 「生きとし生けるものへの深い同情」 この実践するに難い、ある意味、過激でラディカルなはずの「慈悲」の精神が、被災地の人々の心に深い癒しと慰めを与えたという事実は、浅薄な合理性を超えた宗教の本質を開示するものであったろう。ダライ・ラマ法王が現代の聖者と讃えられる由縁でもあろうか。著者・中村元氏が存命ならばどう思われたか興味は尽きない。

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