原著は1946年に出版、邦訳は1965年に初版。著者マックス・ピカートはスイスの医師で哲学者、著述家。オルテガやベルジャーエフと並び現代の最もすぐれた文明批評家と目される。ヒトラー、ナチズムの台頭を準備した諸現象の考察、現代文明が抱える病いの情け容赦ない追及。
本書は冒頭から現代人の心性に対する激烈な批判をもって始まる。現代人が落ち込んだ「連関性喪失」の罠がヒトラーの出現を準備したと、ピカートは厳しく告発する。
「現代人はあらゆるものを、なんの連関もない錯乱状態のままで、手当たりしだいに掻きあつめてくるのですが、それは、現代人のこころのなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません」(p.8)
「こころの内部が支離滅裂な一種の錯乱状態を呈している現代人のところへ、外界の一種支離滅裂な錯乱状態がうごいて来る、というのが実情です。したがって、何がわが身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起り来たりつつあるという、ただそれだけで満足なのです」 (p.8)
この支離滅裂な錯乱状態の典型を、ピカートは絵入り雑誌やラジオ放送に見ている。原著が出版されたのは1946年のことで、本格的なテレビ時代はまだ到来していないが、ピカートはこの頃すでにマスコミを現代文明の病の象徴と捉えていた。
ピカートによれば絵入り雑誌やラジオの世界は、もろもろの事物がお互いに連関しないように、それらがつぎつぎに忘れられてゆくように、事物を製造する。ばらばらになった外部世界は、人々が事物を一定の連関において受け取る能力を欠いていることを前提しているという。
非常に哲学的な言い回しで、ちょっと混乱させられるが、これは我々がふだん目にしているテレビの世界がどのようなものか、じっくり考えてみると分かりやすいかもしれない。
例えば、我々はテレビのニュースで悲惨な事故の映像を毎日見る。事故の規模、死傷者の数、事故の原因、関係者の反応、何もかもを目にする。しかしそのニュースが終わると、あたかも何事もなかったかのように、幸福な家族がクリームシチューを食べるCMが放送されるのだ。
そのシチューのCMを見ているとき、もはや我々の心には事故の犠牲者など存在していないし、更にCMが終わると大リーグのキャンプに参加する日本人投手の報道が始まる。このときもやっぱり我々はシチューのCMなど完全に忘却してしまっている。
よく考えてみれば、悲惨な事故と暖かいシチューと日本人投手の間には何の関連性もない。つまり関連性のないものを連続して生起させるのがテレビやラジオの役割なのである。テレビの視聴者も制作者も、脈絡のないものが連続して生起すること、ただそのことだけを重視する。逆に「何も生起しない」状態は「放送事故」と呼ばれて忌み嫌われる。
だから何も生起しない空白の状態を避けるため、テレビはありとあらゆるものを手当たりしだいに掻きあつめてくる。そのなかには「お金があれば何でもできる」とうそぶくIT長者もいれば、素人向けのパフォーマンスにばかり長けたボクシング一家もいるだろう。何でも、どんなものでもまぎれ込んでくる。
さてどんなものでもまぎれ込んでくるからには、ヒトラーだってまぎれ込んでくるのは当然ではないか? そしていったんヒトラーがまぎれ込めば、ヒトラーは事実上人間の内部に居座ってしまうのである。
内面での連関性を失った人間は、意志をもって対象に近づき吟味することをしなくなる。忘却のなかで瞬間から瞬間へと錯乱した暮らしを続ける人々は、もはや虚無のなかで生活するのと変わりがない。ここに虚無の塊であるヒトラーの支配が準備されたとピカートは喝破した。
本格的なテレビ時代到来以前の段階で、ここまで現代文明の欠陥を的確に捉えたピカートの眼力には敬服するしかないが、その後の歴史はピカートの祈りを裏切り、ますます「連関性喪失」の状況を悪化させてきた。
今やピカートの故国スイスやドイツを遠く離れた日本においても、「連関性喪失」の罠がはびこり、ただ何事かが生起することを望む人々の意志が、肥大したまま暴走を続ける一途である。
さて訳者の佐野利勝氏によれば、ピカートの著作の基礎にはつねに彼独自の観相学があるという。ピカートの初期の著述は美術に関するものであったから、おそらく美学を学ぶ過程で身についたものであろうが、この形作られたものの像を見て、そこに宿された意味を感じ取る観相学は、本書でヒトラーに対しても適用された。
ピカートによれば、ヒトラーの顔は「全面的空無」そのものらしい。彼の顔は指導者の顔ではなく、指導されねばならない人間の顔である。その顔は結婚詐欺師や贋写真師の顔でさえない。それはまずい筆で書かれたゼロのような顔であり、口に当たる部分の穴から、絶え間ない叫び声が圧力を加えていなければ、この顔は崩れ去るだろうと。
このピカート流の観相学は、映像主体のテレビ時代にこそ大いに活用されるべきではないだろうか。というのも、形作られた像からそこに宿された意味を見出すことができそうにもない人物が、現代日本にもちゃんと存在すると思われるからだ。
顔にあらわれているこの見まがうべくもない全面的空無が、正しく空無であることを認識されなかったというようなことは、ただ全面的連関性喪失の世界においてのみ可能であったと言わねばならない。それは紛れもなく空無として、誰はばかることもなく陳列されていた。いや、あまりにも明瞭に空無として陳列されていたのである。しかも、人々はそれを見なかったのだ。まことに、全面的連関性喪失と非連続の世界のなかでは、人々は見ることができないのである。(p.65)
「連関性喪失の世界のなかでは、人々は見ることができない」というピカートの指摘はこの人物についても当てはまる。民放各局のニュースショーでも09年10月3日の浮かれぶりは報道されていたが、この顔にあらわれた全面的空無が認識されなかったことは、当時内閣支持率が64%に達していたことからも明らかだからである。
連関性の失われた刹那的な世界には、どんなものでもまぎれこんでくる。ヒトラーだろうがハトラーだろうが、何でもまぎれこんでくる。ピカートの予言は出版後60年を経てなお通力を失わない。
さて、この予言的思索をなしたピカート自身が、実は極めて宗教的かつ保守的な人間だったことは、「連関性喪失」の病に向き合うわれわれに対して大きな示唆を与えてくれるのではないか。
ピカートは言う。「人間は先ず第一に、ふたたび一つの堅固な内的連続性を獲得せねばなりません」と。「瞬間」だけしか存在しない世界ではなく、連続のなかに自己の存在をもつこと。過去のものを愛情をもって受け容れることで、一つの連続的な秩序を置くこと。これはわれわれが進んで歴史に向き合うとき求められる態度でもあるだろう。
現代の病に特効薬はないかもしれないが、少なくとも「内的連続性」を求めることが多少のワクチン効果を果たすかも知れない。鳩山由紀夫の出現を準備した現代病に立ち向かうには、われわれ自身が進んで刹那的な世界から脱却し、歴史の叡智を自ら求める以外に方法はないのではないか。歴史認識の重要性を何度くり返しても足りない理由はここにある。
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